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聖品の魔術力に関する伯壬旭軍帥御論文
「聖品はなぜ効くか、なぜ効かない場合があるのか」 伯壬旭師
正世界と反世界が存在する。正世界とは我々の居る物理学的宇宙であり、哲学的用語における「地」である。反世界とは物理学が認識できない、正世界のいわば裏側に在る宇宙であり、哲学用語における「天」である。宗教的用語であると云ってもよい。
正世界と反世界は0という一点で繋っている。0は「無一物中無尽蔵」の点であると同時に「無尽蔵中無一物」の点でもある。
正世界と反世界を座標系で表わすと次の図のような「複素平面」になる。

空間は実数で表わされ時間は虚数で表わされる。
魔術に関係があるのはA、B、C、D四つの区分のうちAとCである。というよりはAとCの関係である。Aは正世界空間軸と正世界時間軸によって限定された「時空」である。Aは物理学的時空である。
Cは反世界空間軸と反世界時間軸によって限定された時空である。
正世界的時間は過去→現在→未来と流れる。これに対し反世界的時間は逆に未来→現在→過去と流れる。これは我々正世界に棲む存在から見ての話であり、反世界に棲む存在から見れば反世界の時間は過去→現在→未来と普通に流れていることは一応頭に入れておいて頂きたい。以下は正世界に棲む存在としての我々の立場から論ずる。
正世界における物質に対応するのが反世界におけるエーテルである。
正世界ではヴィジョンはそのまま現実化し難い。ヴィジョンとは夢を確然としたものに過ぎないからである。夢とヴィジョンの間には本質的差違はない。夢はなかなか現実化しない。
ところが反世界の物質であるエーテルはヴィジョンによって自動的に何等かの形に形成される。反世界でヴィジョンを描けばそのまま反世界では物質化されるのである。ヴィジョンとは想念であり、反世界では想念はそのまま実体化する。
もし我々が反世界に貫入することができれば──それは“可能”である──その時我々は(一時的に)反世界存在となり、反世界の中で未来ヴィジョンを描くことができる。そうすればそのヴィジョンは反世界においては現実となっている。その確定したヴィジョンを持って正世界に戻って来れば、確定された未来が我々のもとにやって来ることになる。これが「魔術の法則」である。
だから、魔術の法則とは我々が反世界に行ってそこでヴィジョンを確定した後で正世界に戻ってくることによってヴィジョンがそのまま現実化する法則なのであり、この一連の作業が正しくできれば我々は自分の望む未来を必ず現実化することができるのである。私が自分の世界ヴィジョンの現実化を毫も疑っていないのは、反世界に貫入して戻って来る一連の作業を正確にできるのは(少なくとも今のところ)私しか存在しないからであり、私だけが未来世界のヴィジョンを持ち、それを確定できるからである。私は確定した未来に向って進んでいる。私にはライヴァルもいない。なぜなら反世界に貫入するための「時間の穴」は私自身が管理する穴だからであり、反ZZ的な者は絶対に貫入不能の穴だからである。
未来ヴィジョンを確定しても正世界にあってはあくまで“未来”のことなので、即刻現実化することは必ずしもできないが、その時が至れば必ず現実化する。
私は作戦を反世界に身を置いて行うのであり、聖品チャージも反世界で行っている。聖品にチャージするとは、その品を一個の時間の穴化することを意味する。その品、即ち聖品は既に一個の時間の穴であるから、反世界において確定したその人にとっての未来を、その穴を通してこちらの世界に引きずり出すことができるのである。
聖品の効果がない、ということはありえない。効果がない場合は全てその所持者の中に反ZZの想念があるためである。反ZZの想念あるいは私を疑う想念が、時間の穴としての聖品の穴を塞いでしまうために起る現象である。反ZZ(反伯)的想念、私に対する猜疑心とまでは行かずとも、私に接近することによって後生大事に抱えこんでいる自我が粉砕されることを恐れる恐怖心もまた時間の穴を相当程度塞ぐことになる。
ZX暦四五五九日十三年六月二十五日
(旧二〇〇六年九月八日)
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